心地良い文章だと思った。
一つ前に読んだ本(推し、燃ゆ 宇佐見りん)が疾走感のあるものだったから余計にそう感じたのかもしれない。
古い町家の湿っぽさ、出来立ての料理、感情の揺れ、一瞬の表情、筋肉の動き、音、匂い、風、光、暗さ、冷たさ。
映像のように頭の中に浮かんできて、もうドラマになる、と何度も思った。
鮮やかな表現、とかそんな目立ってピカピカしたものではない。ただ、本当に、そこにありのままがあるみたい。
作者が色んな角度から丁寧に映し出すシーンを、
客観的な場所からじゃなく、ちゃんと物語の人物のものとして感じることができた気がする。
裏表紙のあらすじに「三角関係未満の…」何て書いてあるのに、ずっと丁寧で優しい調子で進むから、どんな展開になるのだろう、ドロドロの展開なるなんてあり得るのか?、と物語の先を勘ぐりながらも、作者の言葉観に浸る心地よさに身を任せたい気持ちが勝って、急ぎたいとは思わないことに有り難く思った。急いだらもったいないと思った。
私は細かいところを味わうより、展開が気になりすぎて、急ぎ足で読んでしまうことがある。
そんな時は、罪悪感と己の愚かさを恨みながら、
平気なフリをして淡々と進む。
でも今回は、そんなことしなくていいよって空気が漂っていたから、安心してただ感じることに集中することができた。
本書の書評、阿川佐和子さんも書いていたけど、
さりげなく光る、独特の音表現に心躍る。
あぁ、なんでこんなにぴったりな表現が日常では交わされないのだろうと思うほど、それらは何も奇をてらった様子はなかった。新鮮な表現なのに、懐かしいようで、スッと脳に沁みていく。
なんとなく「手づかみで野菜をしゃぐしゃぐと食べる。」が妙に好みに感じて、お気に入りを見つけたようで、口角があがった。
食べることに1番興味があるからかもしれないし、きちんとした家庭料理に憧れがあるからかもしれない。私の生活にも、本書の料理を、一つでもいい、取り入れてみたいと思った。
もくじを見ただけの時は、気取っているように見えた料理名が、読み終えた今では、読書の思い出のお品書きのように見える。
鮮やかなオレンジ色のあけぼのご飯、皮のまま蒸した甘くてぷちぷちのとうもろこし、王冠のようないちごパフェ、ただただやさしいぶどうパン、無数の具の組み合わせができる手巻き寿司。
次読み返す時は、別の料理に心惹かれるかもしれない。
3人ともがそれぞれ正しくて(正しい、という表現はしっくりこないけど、3人の人格は何も否定するところがないから、あえて。)、弱さや寂しさがあって、どの一面だって自分の中にも少なからずあって、なんだかほっとする。
小説を読むことが好きなことの理由の一つには、日頃否定したり押し殺したりする感情や思考に、スポットライトをあてて、寄り添ってもらえるような気がするから、が大きいと思う。
小説の登場人物は、みんな悩みを持っていて、それを言葉にしてくれる。そして、悩みを彼らなりに昇華する過程を見ることができる。
それに、自分自身の感情の揺れを味わうことができる。
やっぱり、わたしはわたしを否定することに
安心感を得てしまいながら生きているなぁと気付かされる。もっと認めてあげたい。
でも他人に認められない自分を外に出す勇気は、まだ無い。これからも持てるかは分からない。
だから心の栄養になりそうな小説が必要。
文章の終わりに近づくと、妙に綺麗に纏めようとするのが嫌いだ。心がざわつく。
だいぶ本書から離れて自分に戻ってきてしまった。だから、あの心地よかったイメージをもう一度浮かべて、閉じる。
2023.12.22